ルビコン 川 を 渡る。 ルビコン川を渡る、禁を犯したカエサルの決断(ナショナル ジオグラフィック日本版)

【3分でわかる】「ルビコン川を渡る」とはどういう意味?使い方・由来|セーシンBLOG

ルビコン 川 を 渡る

元老院との戦い 勝利した 「カエサル」は大きな軍隊を伴い、ローマに凱旋するはずでした。 しかしローマに入るためには武装解除をしなければならず、武装解除をしなければ中央政府に対する反逆罪とみなされることとなっていたのです。 その際 「カエサル」がローマに向かう途中に越えなければいけなかったのが 「ルビコン川」だったのです。 つまり、ローマの内側に入るときには武装解除しなければいけないというのは、 「ルビコン川」を渡るときに武装解除をし、ローマに向かわなければいけないという法律であり、それは元老院の法律だったのです。 カエサルはその法律を無視し、 「ルビコン川」を渡り、元老院と戦うことになりました。 この時に 「塞は投げられた」という有名な言葉が出来上がったとされています。 そして 「カエサル」は元老院に勝利を収め、ローマに凱旋しました。 ルビコン川とは 先ほども述べた通り、 「ルビコン川」というのはローマの辺境にある側です。 「カエサル」が軍を率いて渡ったというところから、大きな川だったのではないかと言われていましたが、実は場所もよくわからない小さな川だったのではないかという説が有力です。 最近ではフィウミチーノ川が 「ルビコン川」だったのではないかなどとも言われていますが、歴史自体があまりにも古すぎてはっきりしていません。 このフィウミチーノ川も全長30キロもないような川なのです。 歴史家の間にはちょっとした議論の的になっています。 ちなみにイタリアのムッソリーニはフィウミチーノ川をルビコーネ川と改称してしまいました。 その結果英雄物語にちなんだ場所を無理矢理決めてしまったということになり、逆に議論を煽ってしまったとされています。 フィウミチーノ川以外にもピシャロッテ川やウーゾ川も 「ルビコン川」だった可能性があると考えられています。 「清水の舞台から飛び降りる」【きよみずのぶたいからとびおりる】 「清水の舞台から飛び降り」とは 「思い切って大きな決断をすること」を指します。 京都の清水寺は誰もが知る大きなお寺ですよね。 そこには高い崖に張り出して作られた舞台があり、この崖から飛び降りると怪我をしない、あるいは心で成仏できると考えられていました。 そのため、ここから身を投げるものが足りなかったと言われています。 このような清水の舞台から飛び降りるほど必死の覚悟で実行する時、この言葉が使われます。 多くの場合は値段の高いものを購入する時や値段を大きく負ける時などに使われます。 なお、これは清水寺から来た表現ですので、 「清水」はあくまで 「きよみず」であり、 「しみず」ではありません。 「一か八かの賭けに出る」【いちかばちかのかけにでる】 「一か八かの賭けに出る」という表現も大きな決断をするときに使われる言葉です。 「一か八か」という表現自体が結果がわからないまま運を天に任せて勝負を試みること、という意味を持っています。 一と八という数字に関してはカルタ賭博から発生したのではないかと考えられています。 まず、賭博における 「丁か半か」の漢字の上の部分を取ったのではないか、という説があります。 なんとなく説得力があるようにも感じますが、 「八」を 「ばち」と呼んでいるため、わざわざ 「一」でなく 「八」だけ訓読になっているという事から疑問が生じています。 また、 「ばち」と濁音化していることに対しても疑問が残っていると考えられます。 「当たって砕けろ」【あたってくだけろ】 「当たって砕けろ」というのは成功するかどうかはわからなくてもとにかく思い切ってやってみよう、という意味を持っています。 もちろん当たって砕けてしまっては元も子もありません。 しかしそれだけの覚悟で望めば成功する可能性も高くなる、やるだけやってみよう、という意味を持つのです。 だめでもともとという気持ちがあれば、案外うまくいくこともあるかもしれません。 そのため極めて難しい状況を頑張ろう、打開しよう、やってみよう、という気持ちになるために使われる表現でもあります。 好きな人に告白するときなどに使われることもありますね。 「石橋を叩いて渡る」【いしばしをたたいてわたる】 「石橋を叩いて渡る」というのは幼児の上にさらに用心を重ねて物事を行うことを指します。 強固な石の橋は既に壊れるはずがありませんよね。 しかし石を叩いて安全性を確かめて渡ることから、用心しすぎるほど用心深くなっている状態を指しています。 慎重すぎる人、臆病な人に対して使うこともありますが、この場合は皮肉を込めて使うことが多いです。 石橋を叩いて渡る」などと用心を促す際に使われることもあります。 ただし、用心に用心を重ねたのにも関わらず結局行動しないことにした、用心深くなりすぎたために失敗した、などということを指して 「石橋を叩いてもわからない」 「石橋を叩いて壊す」などという表現も存在します。 ちなみに 「危ない橋を渡る」とは意味が違います。

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「ルビコン川を渡る」の意味と使い方からシーザーとの関係や由来まで

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背景 [ ] 共和政ローマではによる一連の改革に始まり、やによる支配、(平民派)と(閥族派、元老院派)の争いなど後世「」と呼ばれる政情不安な状態が続いていた。 にポンペイウス、カエサル、はと後に呼ばれる統治体制を構築して権力を握り、カエサルは自身の娘をポンペイウスへと嫁がせたことで基盤を固めた。 その後、カエサルはガリアなど3つの属州の総督として赴任してを戦い、にはポンペイウスとクラッススが共に(コンスル)を務めた。 しかし、にユリアが死去、にとのでクラッススも戦死したことで第一回三頭政治が崩壊した。 また、カエサルがガリア戦争の成功によりポンペイウスと同等の軍事上の権限を得たことに対し、元老院派はカエサルの権力拡大を危惧してポンペイウスと接近した。 には暗殺に伴うローマ国内の混乱へ対処するため、ポンペイウスを唯一のコンスルに選出した。 元老院はカエサルがガリア総督としての任期切れ後にコンスルに立候補する意向であることを知り、カエサルから軍隊を引き離すことを模索した。 12月、カエサルはポンペイウスも軍隊を解散させるならば自分も軍隊を手放すと元老院に伝書を送ったが、元老院はカエサルが不法に軍を維持するのならば「国家の敵」と宣告するとした。 カエサルの幕僚である及びはカエサルからの「応じられない」とする意向を元老院へ伝えたが、元老院はこれを拒否した。 紀元前50年、ポンペイウス及び元老院派は(前執政官)としてのカエサルの任期が終わったことを受けて、ローマに戻り軍を解散するよう指示し、カエサルがコンスルに立候補するのを禁じた。 カエサルはコンスルの地位も軍隊の力もなしにローマに戻るなら、のごとく罪に問われ、政治的に失脚させられると考えた。 紀元前49年1月、元老院はカエサルに対して「」を発した。 経過 [ ] ルビコン川を渡る [ ] 紀元前49年1月10日、カエサルは子飼いの部隊であると共に、とイタリア本土の境界であるを渡るという決定的な一歩を踏み出した(イタリア本土(ルビコン以南、以北)へ軍隊を率いて侵入することは禁じられていたが、実際は過去にマリウスやスッラも攻め込んでいる)。 なお、この際にカエサルは alea iacta est()と言ったとされる。 ローマへのカエサルの進撃に対して、無防備なローマにいることを嫌ったポンペイウスはローマから逃れた。 ポンペイウスには影響下にある軍隊がいくつかあり、その中のに対してカエサルがローマに着く前に途中で追捕するよう指示を出したものの、カエサルはドミティウス軍をコルフィニウム(現:)で打ち破った。 カエサルはローマへ向かわずにポンペイウスを追ってさらに南下。 ポンペイウスは自身の地盤である東方属州へ向かうためにブルンディシウムを目指し、やら元老院議員もポンペイウスに合流するため南へ逃れた。 カエサルはポンペイウスへ会談をするように申し出たが、ポンペイウスはこれを拒否。 その後カエサルもブルンディシウムへ到着したものの、紀元前49年3月にポンペイウスは自軍の船隊と共にギリシアまで逃れていた。 この時カエサルの金庫は空っぽになっていたので、彼は元老院派との戦いに備えてローマの国庫の金を軍資金に充てた。 ポンペイウスが軍を集めている間、カエサルはポンペイウスへの合力が予想される軍隊を排除すべく元老院派の牙城であったへ進軍。 でや、らが率いる元老院派軍を破り、元老院派に組して抗戦したマッシリア(現:)もらが陥落させた()。 一方、同じ元老院派の勢力下にあった北アフリカへは、が総指揮を執るカエサル軍がの州都であるへ侵攻したものの、元老院派は王の加勢も受けて(現:)でカエサル軍を壊滅させ、クリオを討ち取った。 カエサルはローマへ戻ると元老院によってのコンスルに選出され、ギリシアにポンペイウスを追討するためカエサルは海峡の向こう側のに約15,000人の軍隊を集結させた。 ファルサルスの戦い [ ] 「」も参照 紀元前48年7月、カエサル軍は元老院派の兵站基地でもあったデュッラキウム(現:)の包囲戦を展開したが()、元老院派軍の前に敗走した。 しかし、ポンペイウスは寄せ集めの自軍がカエサルの精鋭軍を破ったと信じられず、カエサル軍の後退も罠と信じて掃討戦は行わなかった。 結果、ポンペイウスは内戦を早期に終わらせる機会と勝機を失った。 8月に両軍はギリシア北部のファルサルスで再度激突、カエサル軍より歩兵も騎馬兵共にはるかに多勢の元老院派軍であったが、敗北した()。 この戦闘の結果、元老院派の中でドミティウスが戦死、やヒスパニアで敗北したウァロ、、やらが陣営を離れ、カエサルに降伏した。 ポンペイウスとは再起を図るべくエジプトに逃がれたが、9月に国王の側近によって殺害された。 メテッルス・スキピオ、アフラニウスとペトレイウス及びカトは北アフリカに逃れた。 ローマ元老院はカエサルを(ディクタトル)に任命したが、11日後にディクタトルを辞職してコンスル(2期目)に選出された。 カエサルはポンペイウスを追ってへ渡ったが、既にポンペイウスは殺害されていた。 ではプトレマイオス13世及び彼の姉と、プトレマイオス13世の妻として共同でファラオの座にあったが争う状態であったが、ポンペイウスを殺害したプトレマイオス13世の責任を強く見た(贈り物としてプトレマイオス13世の侍従が手渡したポンペイウスの首を見てカエサルは涙したと伝えられる)こともあって、カエサルはクレオパトラ7世の側について彼女を勝利に導き、クレオパトラ7世がプトレマイオス朝の実権を握った(名目上はとの共同統治)。 ファルサルスの戦い以降 [ ] 「」および「」も参照 のうち、1か月をエジプトで過ごしたカエサルは、ローマ内戦の間隙を突く形で王がローマ領へ侵攻したのを受けて、を経てポントスへ向かい、ファルナケス2世にで勝利。 この際、カエサルはローマの友人へという内容の手紙を送っている。 ファルナケスはまで退去して、族と族からなる軍を構成し、いくつかの都市を支配下に置いたが、軍内部の人間によって殺害された。 紀元前47年、カエサルは北アフリカ・に逃れた元老院派の残党を追討するため出発。 メテッルス・スキピオらが率いる元老院派及びユバ1世率いるヌミディア連合軍を4月にで撃破し、メテッルス・スキピオ、アフラニウスらは殺害された。 さらにカエサル軍はウティカを攻撃しウティカに籠城していたカトは支えきれずに自殺、ユバも逃亡を図ったがペトレイウスと共に自殺してヌミディア王国は断絶した。 ポンペイウスの長男グナエウス・ポンペイウスと次男、そしてらはヒスパニアに逃れて、当地で兵を集めた。 ヒスパニアを守備していたを圧迫する勢いであったため、紀元前46年夏にを終えたカエサルはヒスパニアへ出兵し、3月で元老院派を撃破してラビエヌスは戦死、グナエウス・ポンペイウスは逃亡途中で殺害された。 セクストゥスは大西洋岸まで逃亡したものの、ムンダでの勝利を以て一連の内乱は終結を見た。 ローマ内戦・年表 [ ]• - カエサル軍によるルビコン渡河、内戦開始。 - カエサル軍、コルフィニウムを包囲。 19日に陥落。 - ポンペイウス、ブルンディシウムよりギリシアへ逃れる。 - カエサル軍、マッシリアを包囲()。 カエサル、ローマへ入城。 - カエサル軍、で元老院派に勝利。 - 元老院派とヌミディア連合軍がでカエサル軍に勝利。 - マッシリアがカエサル派に降伏。 - カエサル、ギリシアへ到着。 デュッラキウムの元老院派を包囲。 元老院派がカエサル派を破る。 カエサル、テッサリア方面へ撤退。 - でカエサル派が元老院派に勝利。 ポンペイウスはエジプトへ逃亡、メテッルス・スキピオやカトらは北アフリカへ逃れる。 - ポンペイウス、アレクサンドリアで殺害される。 - カエサル、エジプトへ上陸。 - でローマ軍(カエサル派)が勝利。 カエサルと同盟したクレオパトラ7世がプトレマイオス朝の実権を掌握。 - でローマ軍(カエサル派)がポントス王国軍を撃破。 - カエサル、北アフリカへ上陸。 カエサル派全軍も年内にほぼ上陸完了。 - でカエサル派が元老院派およびヌミディア連合軍に勝利。 メテッルス・スキピオ、カトらは敗死。 ユバ1世も自害してヌミディア王家は断絶。 - カエサル、ヒスパニアへ上陸。 - でカエサル派が元老院派(ポンペイウス派)に勝利。 ラビエヌスらは戦死、セクストゥス・ポンペイウスは逃亡。 - カエサル、ローマ元老院議場で暗殺される。 脚注 [ ].

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ルビコン川を渡る、禁を犯したカエサルの決断(ナショナル ジオグラフィック日本版)

ルビコン 川 を 渡る

逆境に直面した時、人々は歴史を変えるほど大きな決断を下し、劇的な大逆転を遂げてきた。 そんな物語47篇を収録した から、今こそ読みたい5人の決断を紹介する。 「ルビコン川を渡る」という表現は、後戻りのきかない道へと歩み出す、その決断を下すことを意味する。 「一線を越える」とか「背水の陣を敷く」などともいう。 ルビコン自体は、大した障害ではない。 アペニン山脈に水源を発して東に流れ下るイタリアの小さな川で、リミニとチェゼーナの間を通ってアドリア海に注ぐ。 渡るのは簡単で、それは紀元前49年1月10日も同じだった。 そのとき、ユリウス・カエサルは配下の一個軍団を従えてこの川の北岸に立ち、次の一手を決めあぐねているように見えた。 [画像のクリックで拡大表示] カエサルが迫られていた決断は、どうやって対岸に渡るかということには関係なかった。 すぐそばに橋が架かっていたからだ。 彼を立ち止まらせ、思案に暮れさせていたのは、この川が象徴するものだった。 ルビコン川は、当時カエサルが統治を任されていたローマの属州ガリア・キサルピナ(アルプスのこちら側のガリアの意)と、ローマおよびその周辺の直轄領から成るイタリア本土とを隔てる境界線だったのである。 将軍が軍を率いてイタリア本土に入ることは、ローマの法律で明確に禁じられていた。 その禁を、今まさにカエサルは破ろうとしているのであり、彼自身、それがどういう結果を招くか重々承知していた。 ルビコン川を渡ることは、カエサル本人はもちろん、彼につき従う者も死罪に問われることを意味していた。 従って、もし軍団を率いて川を渡るならば、かつての盟友で今や不倶戴天(ふぐたいてん)の敵となったポンペイウスが指揮を執る軍勢を打ち破ってローマを掌握するしかなかった。 それができなければ、刑死は免れない。 自らの決断の重さにしばらく思いを巡らしてから、カエサルはルビコン川を渡る。 ローマ内戦の火蓋が切って落とされた。

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