レオナルド ダ ヴィンチ 作品。 《東方三博士の礼拝》レオナルド・ダ・ヴィンチ|MUSEY[ミュージー]

レオナルド・ダ・ヴィンチ

レオナルド ダ ヴィンチ 作品

レオナルド・ダ・ヴィンチとは? レオナルド・ダ・ヴィンチ (全名:レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ, 1452~1519年)とは、イタリアのルネサンス時代に活躍した画家、建築家、発明家であり、その他にも生理学、天文学、地質学、物理学、力学、土木工学など、非常に多くの分野において業績を残し、また歴史的価値の高い手稿を残した人物です。 彼の生まれ持った他分野に渡る天才性は、 幅広い知識と尽きない興味や創造的活動で知られたルネサンス的教養人の典型であると言え、人類史上最も多才な人物だったのではないかという意見もある「 万能の天才」。 ダ・ヴィンチは、美術は科学や自然と密接に結びついていると信じていたこともあり、その考えが彼の万能性を引き出しました。 そして、今日においてダ・ヴィンチは主に画家として有名で、特に「 モナ・リザ」と「 最後の晩餐」の2つは、世界で最も有名で愛されている絵画であると言えるでしょう。 一方で、公式な教育をほとんど受けずに全てを独学したのにも関わらず、レオナルド・ダ・ヴィンチは、深い知識を応用して様々な発明をし、それを何十冊ものノートに残しました。 そのノートには、航空学から解剖学に至るまで、様々な分野の研究結果や理論などが記されており、優れた頭脳と想像力を組み合わせて、少なくとも紙面上では、 自転車やヘリコプター、飛行機などといった発明を生み出すことに成功していたのです。 しかし、当時の世界はまだようやく活版印刷術を使って本を作り知識を共有するようになったばかり。 加えて、レオナルド・ダ・ヴィンチのノートに書かれた内容は、非常に難しいものばかりだったため、画家としてはとても称えられましたが、当時、科学者としての才能と天才的な頭脳はあまり理解されていなかったのも事実でしょう。 レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯と人生 生い立ちと教育 レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年4月15日、現在のイタリアのトスカーナ地方、アンキアーノという村で生まれました。 (出典:) これはヴィンチ村から3kimほど郊外にあった集落で、レオナルド・ダ・ヴィンチの「 ダ・ヴィンチ」とは「 ヴィンチ出身の」という意味です。 レオナルド少年は私生児だった レオナルド・ダ・ヴィンチの父親は弁護士で公証人、母親は農家の娘でした。 しかし、父と母は結婚することなく、また、二人の間には他の子供もおらず、母カテリーナはレオナルドがまだ幼い頃に別の男性と結婚し新たな家族を作りました。 また、父と母はそれぞれ別の人と合計で17人の子供をもうけたと言われます (つまり、レオナルドと半分血のつながった兄弟が17人いた)。 このような境遇の中で5歳になる頃からレオナルドは、父セル・ピエロが所有するヴィンチ村の邸宅で暮らすようになり、この暮らしの中でレオナルド少年は、自然に対して強い興味を持っていた叔父から大きな影響を受けるようになります。 ただ、セル・ピエロにとっては私生児であったため、 レオナルド少年は簡単な読み・書き・計算以外には、正式な教育を受けることがありませんでした。 フィレンツェにおけるレオナルド・ダ・ヴィンチの初期のキャリア形成 レオナルドへ満足のいく教育を受けさせなかった父のピエロですが、彼の美術的才能を認め、レオナルドが15歳になった時、当時有名な画家であり彫刻家であったフィレンツェ人の アンドレア・デル・ヴェッキオの下に弟子入りさせます。 これが、レオナルド少年が世紀の天才画家「レオナルド・ダ・ヴィンチ」として後世に名を残す始まりとなったのです。 (出典:) そこで約10年間、ダ・ヴィンチは画家・彫刻家としての腕を磨き、また機械技術に関しても学びました。 そして1472年、レオナルド・ダ・ヴィンチが20歳の時、フィレンツェの画家ギルドに認められ、「マスター(親方)」の称号を獲得します。 しかし、ダ・ヴィンチは独立することなく、ヴェロッキオの工房に留まりました。 1478年に独立 1478年1月、レオナルド・ダ・ヴィンチは最初の独立した絵画制作依頼を受け、ついに画家として独立を果たします。 その制作依頼とは、 ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作依頼でした。 また1481年5月には、サン・ドナート・スコペート修道院から「 東方三博士の礼拝」の制作依頼も受けています。 しかし、 レオナルド・ダ・ヴィンチが、これらの作品を完成させることはありませんでした。 彼はミラノのスフォルツァ公に召喚され、エンジニア、建築家、宮廷で行われる舞踏会などのデザイナー、そして特に彫刻家として活動するためにミラノへ移住したのです。 ミラノでの活動開始から世界的有名な作品が出来るまで ミラノへやってきたダ・ヴィンチはまた、スフォルツァ一家から、高さ5メートルもなる初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァを記念した 巨大な騎馬像の制作依頼を受けます。 その結果、レオナルド・ダ・ヴィンチは、時に他のことをしながらも、 12年間の長期に渡ってこのプロジェクトに挑み続け、1493年には粘土の模型像を発表する用意を整えました。 しかしフランスとミラノの戦争「 第一次イタリア戦争」の開始が目前に迫った状況で、1494年11月には、銅像作成のための青銅がすべて大砲の制作素材として流用されてしまいます。 さらに1499年には、第一次イタリア戦争に失敗したフランスが再度イタリア半島の掌握を目指して侵攻してきた「 第二次イタリア戦争」が勃発。 フランスの目論見自体は失敗しましたが、この戦争の結果、 ミラノのスフォルツァ公が力を失うとミラノは混乱に陥り、粘土の模型像も破壊されてしまったのです。 レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」と「モナ・リザ」はこの頃に描かれた 初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作を請け負っていたこと、さらに他の活動にも精を出していたことから、画家または彫刻家としてのダ・ヴィンチは寡作 (芸術家などが作品を少ししか作らないこと)でした。 そのため、現在まで残っている彼の作品はごく少数。 しかしそのうち2つは、世界で最も有名な絵画作品の一つとなっています。 この絵画は石膏上に描かれた壁画で、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描かれています。 そして名前の通り、聖書に登場する最後の晩餐シーンを描いており、イエス・キリストが弟子たちに向かって「 この中の誰か1人が私を裏切るだろう」と発言した場面をとらえているのです。 また、この絵画の特徴的な点は、各弟子たちの感情表現と動的なしぐさだと言われます。 「 弟子たちの中心にいながらもどこか1人浮いているキリスト」という構図は、以後何世代もの画家たちに影響を与えました。 ちなみに、この作品のモデルとなったミステリアスな微笑みで有名な女性の正体については、「いったい誰なのか?」と、何百年もの間議論がなされてきました。 そして、少し前までは高級娼婦ではないかという意見を始め10名以上の異なる人物が挙げられていましたが、最近ではフィレンツェの商人フランシスコ・デル・ジョコンドの妻「リザ・デル・ジョコンダ」であるという説が主流となっています。 現在、モナリザはフランスのルーヴル美術館に所蔵されており、毎年何百万もの見物客がこの絵画を一目見ようと訪れています。 ミラノへ戻ったレオナルド・ダ・ヴィンチ 1506年頃、レオナルド・ダ・ヴィンチは何人もの弟子を連れてミラノに戻ります。 そのうちの一人、若い貴族のフランチェスコ・メルツィは、ダ・ヴィンチが亡くなるまで最も親しい友人であり続けました。 一方で、スフォルツァ公の後を継いでミラノ公となったジャン・ジャコモ・トリヴルツィオ公は、騎馬像の形をした自らの墓の設計をダ・ヴィンチに依頼。 しかし、皮肉になことにこの騎馬像もまた完成することはありませんでした。 これは、トリヴルツィオ公が計画を途中で諦めてしまったからだと言います。 レオナルド・ダ・ヴィンチは、1507年に一度フィレンツェに戻っていますが、1508年にはミラノへ戻ってきており、最終的には1513年までこの地で暮らすこととなります。 レオナルド・ダ・ヴィンチの晩年 7年間ミラノで過ごしたレオナルド・ダ・ヴィンチは、政治的な対立により再びミラノで暮らしていくことが困難になると、ローマに移ってそこで3年間暮らします。 この頃ダ・ヴィンチは、ヴァチカンのベルヴェデーレで多くの時を過ごしたと言われます。 そして1516年、 フランス国王「 フランソワ1世」に招かれたダ・ヴィンチはイタリアを離れ、その後、イタリアへ戻ることはありませんでした。 フランソワ1世はダ・ヴィンチに「 国王専属の画家、技術者、そして建築家」の称号を与え、フランスのアンボワーズ城近くのクルーの館に住まわせ、この環境のおかげで、ダ・ヴィンチは自由に絵画制作や研究に没頭することができました。 また、ダ・ヴィンチはお気に入りの弟子「メルツィ」を一緒に連れていき、他の弟子や友人達とも一緒に時間を過ごしていました。 そのような生活を送っていた1519年5月2日、レオナルド・ダ・ヴィンチはクルーの館で亡くなります。 享年67歳でした。 レオナルド・ダ・ヴィンチの遺産や墓 レオナルド・ダ・ヴィンチの遺体は、アンボワーズ城敷地内のサン・フロランタン教会に埋葬されました。 しかし、フランス革命によってこの教会の大部分が破壊され、また19世紀諸島には老朽化のため取り壊された結果、現在遺体は、 サン・テュベール礼拝堂に埋葬されているとされます。 一方でダ・ヴィンチは、自らのお気に入りの弟子であるメルツィへ、金銭的遺産だけではなく全ての遺産を遺したため、メルツィはそれら全てを相続することになりました。 レオナルド・ダ・ヴィンチの人生を象徴する「万能の天才」について レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を歴史の流れを追いながら見てきたわけですが、彼の人生を語る上で忘れてはいけないのが、ダ・ヴィンチの興味関心は美術の領域をはるかに超えていたことでしょう。 彼は自然科学、解剖学、機械工学、物理学、建築学、兵器製造術などを学び、また自転車やヘリコプター、潜水艦、戦車なども設計しました。 ダ・ヴィンチの残した発明のデザインは非常に正確で、実用化可能なものが多かったと言われますが、これらが実際に作られるようになったのは何百年も先のことです。 ある意味でダ・ヴィンチは、「 まだ皆が眠っている時に一足先に目覚めてしまった人」だったのです。 異なる分野を結びつけた一つの要素 ダ・ヴィンチの多岐に渡った興味と才能を結びつけたものとして、一つの要素を挙げることが出来るかもしれません。 それは、レオナルド・ダ・ヴィンチが「 視覚こそが人間の最も重要な感覚である」と信じていたことです。 ダ・ヴィンチは 「 見方を知ること」こそが、人生を豊かにして創造的に生きるためには欠かせないと考えていたのです。 その結果、 「美術」と「科学」を対象的なものではなく、むしろお互いを補完するものであると捉え、全てのアイディアはつながっていると考えたようなのです。 他分野に渡る関心は未完の作品を残した しかし、あまりにも多くの物事に関心を持ってしまったため、その生涯の中でダ・ヴィンチは、しばしば絵画やプロジェクトを未完成のまま放置してしまう傾向にありました。 例えば、画家として独立した初期の頃に依頼された、ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作依頼や、サン・ドナート・スコペート修道院からの「東方三博士の礼拝」の制作依頼は、その典型例でしょう。 レオナルド・ダ・ヴィンチは、自然と触れ合って過ごし、科学の法則を実験で確かめたり、動物や人間の体を解剖したり、気づいたことについて考えたり書き留めたりすることに多くの時間を費やしたため、画家としての仕事が疎かになってしまうことが多々あったのです。 レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿 一方で、1490年代前半頃からダ・ヴィンチは、これらの研究をまとめたノートを作成するようになります。 何千というページが丁寧なイラストや細かく記されたコメントで埋め尽くされ、中には左利きの鏡文字で書かれているため、誰にも理解できないものもあります。 これらのノートは、しばしば「 レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿」と呼ばれ、彼の死後、世界中に散らばり、現在いくつかの博物館・美術館でバラバラに保管されています。 例えば、「レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿」の一部である「 アトランティコ手稿」は、ミラノのアンブロジアーナ図書館に収蔵され、 コウモリの生理学や航空学、物理学の研究を基にして考案された飛行機のような物の設計図が記されています。 また、イギリスのウィンザー城に収蔵されている「 ウィンザー手稿」には、人間の骨格、筋肉、脳、消化器や生殖器官などの解剖学的研究が綿密に記されており、この研究によって、人体の作りに関する正しい知識がより多くの人へ広まりました。 合わせて読みたい世界雑学記事• ダ・ヴィンチは人類史上における最も優れた万能の天才と言われ、彼が遺してきた絵画や研究結果をまとめたノートは、数百年以上経った現在でも、多くの人の興味を引いています。

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レオナルド・ダ・ヴィンチとは?生涯と作品を解説 万能の天才になった理由

レオナルド ダ ヴィンチ 作品

レオナルドダヴィンチの謎に包まれた人物像 レオナルド・ダ・ヴィンチ、天才の始まり レオナルドダヴィンチは 1400年代後半から1500年代前半に活躍した イタリアの期を代表する芸術家です。 生まれはごくごく普通の家庭で両親ともに 芸術家というわけでもありませんでした。 ダヴィンチという姓の由来は 『ヴィンチ村出身の』という意味だそうです 幼少期の記録はほとんどなく 平凡な家庭だったということが伺えます。 のちに『 モナリザ』や『 最後の晩餐』など を代表とした数々の名作を残し、 絵画や芸術の分野以外にも 、 音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学 、 動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、 物理学、光学、力学、土木工学 など様々な分野でも功績を残したようです! スーパーなんでも出来るマンですね! のちに 「 万能人 uomo universale 」 というあだ名までつきました! ルネサンス期の美術について 詳しくはコチラ ヴェロッキオに弟子入りした天才レオナルドダヴィンチ レオナルドが14 歳の時に彫刻家の アンドレア・ヴェロッキオの運営する工房に はいりました。 弟子入りですね! このころの逸話として、 レオナルドの描いた 絵を見た師匠の ヴェロッキオが あまりの才能に自信を喪失し 絵を描くことをやめてしまったと言います。 この逸話の元となった 『キリストの洗礼』 という作品は レオナルドが 20 歳の頃の絵で ヴェロッキオとの合作だと言われています。 作品の左側に描かれた天使は レオナルドが描いたと言われ、 それを見たヴェロッキオが自信を喪失し 画家の道を諦めたそうです。 この頃から多彩なる才能を開花させ 特に画家としての才能を現し始めました。 様々な分野での活躍 レオナルド・ダ・ヴィンチは芸術以外にも 様々な才能を発揮しています。 なんと、実は ヘリコプターもレオナルドの 発案から生まれたものだそうなのです。 他にも潜水服や装甲車など当時の時代には 考えられないような数々の発明、 発案された膨大なスケッチが残されています。 芸術に特化しながらも、幾何学や数学も 得意とするレオナルドだからこそ 発案できたものなのでしょう。 まさに万能の人という感じですね。 レオナルドダヴィンチの独立、未完成作品の数々 1478 年頃に独立し、最初の絵画制作が ヴェオッキオ宮殿、 サン・ベルナルド礼拝堂 の祭壇画の制作でした。 1481 年はサン・ドナート・スコペート修道院 の修道僧から 『 東方三博士の礼拝』の制作依頼も 受けていました。 しかし、礼拝堂祭壇画も東方三博士の礼拝も 未完成のまま放置されました… 未完成作品は他にも数多くあり、 かなり気まぐれで飽きっぽい性格 だったようです。 あの有名な『 モナリザ』や『 最後の晩餐』 なども未完成であり 完成作品は 生涯で 10点とも 言われています。 未完成の作品の中には膨大な数の素描や 飛行機、潜水服などの設計図、 人体解剖図や動物、植物のデッサンなど があったと言います。 そしてこの頃はミラノで17 年間 宮廷画家として活躍。 『 岩窟の聖母』『 最後の晩餐』 『 白貂を抱く貴婦人』など制作しました。 1499 年フランス軍がミラノを占拠した頃、 レオナルドはフィレンツェに戻ります。 そこで『 聖アンナと聖母子』 『 アンギアーリの戦い』『 モナリザ』を制作 その後はミラノにまた戻りローマにいきと 場所を転々としていたようです。 晩年の 1513 年頃からはヴァチカンに 身を移しました。 当時のヴァチカンは ミケランジェロや、 ラファエロも活躍していました。 そして死去するまでの3年間は フランソワ 1 世の居城アンボワーズ城 近くの クルーの館 が邸宅として与えられ、 そこで晩年を過ごしました。 64 歳ごろまでそこでずっと続けていた 解剖学や科学、哲学的研究 に没頭しながら 67 歳でその生涯を終えます。 レオナルドダヴィンチの主要作品!徹底解説 1470年代の作品 『 キリストの洗礼』 ヴェロッキオとの合同作品で レオナルドダヴィンチの 最初の作品 同じく弟子だった時代の作品として 『 受胎告知』がある。 『 受胎告知』 20歳頃に描かれた事実上のデビュー作 完成している作品としては最初期の作品です。 1472年ごろの作品 『ブノワの聖母』/ エルミタージュ美術館 幼児期のキリストに花を差し伸べる聖母の絵画 レオナルドダヴィンチ初期の作品で、 未だ本領発揮できていない作品と いえるでしょう。 とはいえやはり表情などに 繊細さや優雅さがあります。 1475年ごろの作品 1480年代の作品 完成した作品はほとんどなく 未完成作品ばかりです。 完成度合いや支払を巡って長い論争となった 未完に終わった絵画のうちの1点が 『 荒野の聖ヒエロニムス』 描 き始めの時点で放棄された作品とも 言われています。 『 東方三博士の礼拝』 フィレンツェ郊外 サン・ドナート・ア・スコペート修道院の 注文により同修道院の中央祭壇画として 制作された作品です。 未完のまま放置された作品 1481年ごろの作品 『岩窟の聖母』 不朽の祭壇画とされています。 こちらも未完です。 1490年ごろ 『 最後の晩餐』 何と言っても有名なこの作品。 最も認知度が高く、最も劣化の激しい絵画 としても有名です 当時のフレスコ画(壁画)の手法では この壁画を描くことが困難だったため、 独自の手法で描かれたことにより 急速な劣化を 招いてしまったと言われています。 しかし模写や複製画の多い絵画の一つです。 捉えどころのない 謎めいた女性の微笑みが特徴の絵画です。 保存状態は完璧に近く 修復過失の後もほとんどありません。 『 聖アンナと聖母子』 完成していれば史上最高の レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作として 世に出されたであろう作品です。 晩年に制作された未完の傑作です。 1508 年ごろ 『洗礼者聖ヨハネ』 ダヴィンチ最後の晩年作品とされている絵画 モナリザ、 聖アンナと聖母子と この 洗礼者ヨハネを 生涯手元に残したとされます。 1513 年ごろの作品 ドローイングや素描、スケッチ 『ウィトルウィウス的人体図』 レオナルドダヴィンチが描いた有 名なドローイングの一つ 両手脚が異なる位置で男性の裸体が重ねられ、 外周に描かれた真円と正方形とに 男性の手脚が内接しているという構図 プロポーションの法則 Canon of Proportions あるいは「人体の調和 Proportions of Man と呼ばれることがあります。 膨大な数の多種多様な ドローイングや下絵が存在します。 ヘリコプターの元になったスケッチや、 潜水服を発案したのもあります。 設計図や発明を想像や創造するの が好きなんですね。 レオナルドダヴィンチを描いたドラマや映画。 天才の生涯が明らかに レオナルドダヴィンチを描いた 著書や映画、ドラマは数多くあります。 その中でも映像として出ている作品を 紹介していきたいと思います! 映画『 レオナルド・ダ・ヴィンチ 美と知の迷宮』 モナ・リザや最後の晩餐などの絵画をはじめ、 建築、彫刻、数学、物理、天文学など、 あらゆる分野にも多様な才能を発揮しました。 イタリアのルネサンスを代表する画家 レオナルド・ダ・ヴィンチの偉大な業績と、 いまだに多くの謎に包まれたその実像を、 研究の第一人者たちの解説と 再現ドラマを織り交ぜた作品。 傑作絵画「最後の晩餐」が最新の技術を 駆使した迫真の映像美が精細に映し出される。 監督は、「ミラノ・スカラ座 魅惑の神殿」 のL・ルチーニです。 こちらは研究者が絵画の解析をし、 それを通して見えて来る当時の状況を解明、 解説した映画です。 ダ・ヴィンチの描いた下絵などを最新技術 によって見ることが可能になり、 ダヴィンチの当時の制作の様子や苦悩、 葛藤などを研究し解析して再現。 多くの謎に包まれる空白の数年間が明かされる。 超人的な知力と才能を持つ彼は、 自分が生きている現実と時代を狭く感じていた。 そんなある日、彼の前にある敵が現れる。 ダ・ヴィンチは仲間と共に真実を抑圧する敵 との戦いに向かって突き進む。 こちらはダヴィンチの生涯を元に スケールアップし空想などを交えた 壮大な冒険ストーリーのドラマのようです。 レオナルドダヴィンチを違う視点から見た 作品になってて斬新ですね。 2013 年制作 まとめ 今回はレオナルド・ダ・ヴィンチの紹介でした! 様々な分野での天才ですが、 外国語と暗算は苦手だったようです… 少し親近感湧きます。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、建築家でもあった?

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のに描かれた役のレオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンス期を代表する芸術家であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人物といい、日本の美術史では「万能の天才」といわれている。 史上最高の呼び声高いの一人であるとともに、人類史上もっとも多才の呼び声も高い人物である。 アメリカ人美術史家 ()は、レオナルドが関心を持っていた領域分野の広さと深さは空前のもので「レオナルドの知性と性格は超人的、神秘的かつ隔絶的なものである」とした。 しかしながらマルコ・ロッシは、レオナルドに関して様々な考察がなされているが、レオナルドのものの見方は神秘的などではなく極めて論理的であり、その実証的手法が時代を遥かに先取りしていたのであるとしている。 1452年4月15日、レオナルド・ダ・ヴィンチは、から、約20km程、離れたフィレンツ郊外のヴィンチ村において、有能な公証人であったセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農夫の娘であったカテリーナとの間に非嫡出子として誕生した。 1466年頃、レオナルドは、当時、フィレンツェにおいて、最も優れた工房の1つを主宰していたフィレンツェの画家で、彫刻家でもあったが、運営する工房に入門した。 画家としてのキャリア初期には、に仕えている。 その後、、などで活動し、晩年はに下賜されたフランスの邸宅で過ごした。 レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高い。 とくに、その絵画作品中もっとも有名でもっとも多くのパロディ画が制作された肖像画『』と 、もっとも多くのや模写が描かれた宗教画『』に比肩しうる絵画作品は、が描いた『』以外には存在しないといわれている。 また、の『』も ()と見なされており 、イタリアの1ユーロ硬貨、、など様々な製品に用いられている。 現存するレオナルドの絵画作品は15点程度と言われており決して多くはない。 これはレオナルドがで何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法のに時間をかけていたこと、一つの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる。 それでもなお、絵画作品、レオナルドが残したやに関するイラストが描かれた、絵画に対する信念などは後世の芸術家へ多大な影響を与えた。 このようなレオナルドに匹敵する才能の持ち主だとされたのは、同時代人でレオナルドよりも20歳余り年少のミケランジェロ・ブオナローティだけであった。 レオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている。 やの概念化、や計算機の理論 、二重船殻構造の研究、さらには初歩のも理解していた。 レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが 、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした。 また、、、、の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった。 また、の研究も行っていた。 更に眼を調べることで光と眼鏡の原理も解明していた。 生涯 [ ] 幼少期、1452年から1466年 [ ] にあるレオナルドが幼少期を過ごした家。 レオナルドは1452年4月15日()の「日没3時間後」 に、のヴィンチに生まれた。 ヴィンチは下流に位置する村で、が支配するに属していた。 父はフィレンツェの裕福な公証人セル(メッセル)・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母は(おそらく農夫の娘)カテリーナである。 レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチ(出身)の」を意味する。 出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ(出身)のセル(父親メッセルの略称)の(息子の)レオナルド」という意味となる。 セル(メッセル Messer ) は敬称であり、レオナルドの父親が公証人についていたことを示している。 現在知られている、レオナルドが描いた最初期のドローイング、()。 レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。 生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。 レオナルドの父親セル・ピエロは、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚しており、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去してしまっている。 レオナルドが16歳のときに、父親が20歳の娘フランチェスカ・ランフレディーニと再婚したが、セル・ピエロに嫡出子が誕生したのは、3回目と4回目の結婚時のことだった。 レオナルドは、正式にではなかったがラテン語、幾何学、数学の教育を受けた。 後にレオナルドは幼少期の記憶として二つの出来事を記している。 ひとつはレオナルド自身が何らかの神秘体験と考えていた記憶で、ハゲワシが空から舞い降り、子供用ベッドで寝ていたレオナルドの口元をその尾で何度も打ち据えたというものである。 もうひとつの記憶は、山を散策していたレオナルドが洞窟を見つけたときのものである。 レオナルドは、洞窟の中に潜んでいるかもしれない化け物に怯えながらも、洞窟の内部はどのようになっているのだろうかという好奇心で一杯になったと記している。 レオナルドの幼少期は様々な推測の的となっている。 16世紀の画家で、ルネサンス期の芸術家たちの伝記『』を著したは、レオナルドの幼少期について次のように記述している。 小作農の家で育ったレオナルドに、あるとき父親セル・ピエロが絵を描いてみるように勧めた。 レオナルドが描いたのは口から火を吐く化け物の絵で、気味悪がったセル・ピエロはこの絵をフィレンツェの画商に売り払い、さらに画商からミラノ公の手に渡った。 レオナルドの描いた絵で利益を手にしたセル・ピエロは、矢がハートに突き刺さった装飾のある楯飾りを購入し、レオナルドを育てた小作人へ贈った。 ヴェロッキオの工房時代、1466年 - 1476年 [ ] とレオナルドが描いた『キリストの洗礼』、1472年 - 1475年、(フィレンツェ)。 1466年に、14歳だったレオナルドは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家に弟子入りした。 ヴェロッキオの弟子、あるいは協業関係にあった有名な芸術家として、、、、らがいる。 レオナルドはこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた。 レオナルドの才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、様々な分野に及んでいた。 ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。 ヴァザーリはその著書で『キリストの洗礼』()はヴェロッキオとレオナルドの合作で、レオナルドが受け持った箇所は、キリストのローブを捧げ持つ幼い天使であるとしている。 そして、弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったと記されている。 『キリストの洗礼』はで描かれた絵画の上から、当時の新技法だったで加筆された作品であり、近代の分析によると、風景、岩、キリストの大部分などもレオナルドの手によるものだと言われている。 また、レオナルドはヴェロッキオの美術作品2点のモデルになったとも言われている。 それらの作品はフィレンツェのが所蔵するブロンズ彫刻『ダヴィデ』()と、のが所蔵する『トビアスと天使』()に描かれている大天使である。 レオナルドは20歳になる1472年までに、からマスター(親方)の資格を得ている。 レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象としただった。 その後、おそらく父親セル・ピエロがレオナルドに工房を与えてヴェロッキオから独立させ、レオナルドはヴェロッキオとの協業関係を継続していった。 制作日付が知られているレオナルドの最初期の作品は、1473年8月5日に、ペンとインクでアルノ渓谷を描いたドローイングである。 円熟期、1476年 - 1513年 [ ] 『東方三博士の礼拝』(1481年、ウフィツィ美術館(フィレンツェ))。 未完成のこの作品には、多くの人々に囲まれた聖母子が描かれている。 遠景には風景と崩壊した建物が表現され、聖母子のほうへとやってくる多くの人々が描かれている。 1476年のフィレンツェの裁判記録に、レオナルド他3名の青年がの容疑をかけられたが放免されたというものがある。 この1476年以降、1478年になるまで、レオナルドの作品や居住地に関する記録が残っていない。 1478年にレオナルドは、ヴェロッキオとの共同制作を中止し、父親の家からも出て行ったと思われる。 アノニモ・ガッディアーノという正体不明の人物が、1480年にレオナルドがメディチ家の庇護を受けており、フィレンツェのサン・マルコ広場庭園での芸術家、詩人、哲学者らが集まった、メディチ家が主宰するの一員だったという説を唱えている。 1478年1月にレオナルドは、最初の独立した絵画制作の依頼を受けた。 サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作で、1481年5月にはサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から、『東方三博士の礼拝』()の制作依頼も受けている。 しかしながら、礼拝堂祭壇画は未完成のまま放置された。 『東方三博士の礼拝』もレオナルドがへと向かったために制作が中断され、未完成に終わっている。 ヴァザーリの著書によると、レオナルドは才能溢れる音楽家でもあり 、1482年に馬の頭部を意匠とした銀のを制作したとされている。 フィレンツェの支配者が、この銀のリラを土産にレオナルドをミラノ公国へと向かわせ、当時のミラノ公との間で平和条約を結ぼうとした。 当時のレオナルドがルドヴィーコに送った書簡の記述で、現在もよく引用される文章がある。 レオナルドが自然科学分野で驚嘆すべき様々な業績を挙げていたことを物語る内容で、さらにレオナルドが絵画分野でも非凡な能力を有していることをルドヴィーコに告げる文章である。 レオナルドは1482年から1499年まで、ミラノ公国で活動した。 現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『』は、1483年に聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼で、の壁画『』(1495年 - 1498年)も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品である。 1493年から1495年のレオナルドの納税記録が現存しており、レオナルドの扶養家族の中にカテリーナという女性が記載されている。 この女性は1495年に死去しているが、このときの葬儀費用明細から、レオナルドの生母カテリーナだと考えられている。 馬の側面と、胸から上、右脚が描かれた習作。 レオナルドはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられた。 特別な日に使用する山車とパレードの準備、円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公の巨大な騎馬像の制作などである。 ただしこの騎馬像は、レオナルドが手がける作品としては異例なことに、その後数年間にわたって制作が開始されなかった。 騎馬像の原型となる粘土製の馬の像が完成したのは1492年である。 このフランチェスコの騎馬像を大きさの点で凌ぐルネサンス期の彫刻作品は、の『ガッタメラータ騎馬像』(1453年、サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前サント広場)と、ヴェロッキオの『』(1496年、サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会前広場)の2作品だけであり、レオナルドが制作した粘土製の馬の像は、「巨大な馬」( Gran Cavallo)として知られるようになっていった。 レオナルドはこの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の鋳造を具体的に進めようとしたが 、レオナルドを嫌っていた競争相手のミケランジェロは、レオナルドにこのような大仕事ができるわけがないと侮辱したといわれている。 この騎馬像制作のために17tのブロンズが用意されたが、フランス王のミラノ侵攻に対抗するために、1494年11月にこのブロンズが大砲の製作材料に流用されてしまった。 1499年にが勃発し、イタリアに侵攻したフランス軍が、レオナルドがブロンズ像の原型用に制作した粘土像「巨大な馬」を射撃練習の的にして破壊した。 ルドヴィーコ率いるミラノ公国はフランスに敗れ、レオナルドは弟子のや友人の数学者とともにへと避難した。 レオナルドはこのヴェネツィアで、フランス軍の海上攻撃からヴェネツィアを守る役割の軍事技術者として雇われている。 レオナルドが故郷フィレンツェに帰還したのは1500年のことで、サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道()の修道僧のもとで、家人ともども賓客として寓された。 ヴァザーリの著書には、レオナルドがこの修道院で工房を与えられ、『』の習作ともいわれる『』(1499年 - 1500年、)を描いたとされている。 さらにこの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』は「老若男女を問わず」多くの人が見物に訪れ、「祭りの様相を呈していた」と記されている。 レオナルドがチェーザレ・ボルジアの命令で制作した、非常に精密なの地図。 1502年にレオナルドはを訪れ、ローマ教皇の息子の軍事技術者として、チェーザレとともにイタリア中を行脚した。 1502年にレオナルドはチェーザレの命令で、要塞を建築するの開発計画となる地図を制作した。 当時の地図は極めて希少であるだけでなく、その制作に当たってはレオナルドのまったく新しい概念が導入されていた。 チェーザレはレオナルドを、土木技術に特化したの長たる軍事技術者に任命している。 同年にレオナルドは、の渓谷地帯ヴァルディキアーナ()の地図も制作している。 この地図もチェーザレが軍事戦略上有利な地位を占めるのに役立った。 レオナルドは再びフィレンツェに戻り、1508年10月18日にフィレンツェの芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入した。 そして、フィレンツェ政庁舎()大会議室の壁画『』のデザインと制作に2年間携わった。 このとき大会議室の反対側の壁では、ミケランジェロが『カッシーナの戦い』()の制作に取り掛かっていた。 またレオナルドは1504年に、ミケランジェロが手がけていた完成間近の『』をどこに設置するべきかを決める委員会の一員になっている。 1506年にレオナルドはミラノを訪れた。 、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ()、マルコ・ドッジョーノ()ら、絵画分野におけるレオナルドの主要な弟子や追随者たちは、このミラノ滞在時に関係があった人々である。 ただし、1504年に父親セル・ピエロが死去したこともあって、このときのレオナルドのミラノ滞在は短期間に終わった。 1507年にはフィレンツェに戻り、父親の遺産を巡る兄弟たちとの問題解決に腐心している。 翌1508年にミラノへ戻り、サンタ・バビーラ教会区のポルタ・オリエンターレに購入した邸宅に落ち着いた。 晩年、1513年 - 1519年 [ ] レオナルドが1519年に息を引き取ったクルーの館。 レオナルドは1516年にフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城近くのが邸宅として与えられた。 レオナルドは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子のミラノ貴族 ()ら、弟子や友人たちとともに過ごした。 レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクードにのぼっている。 レオナルドは1519年5月2日にクルーの館で死去した。 フランソワ1世とは緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも自著でレオナルドがフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記している。 このエピソードはフランス人芸術家たちに親しまれ、、フランソワ・ギョーム・メナゴーらが、このエピソードをモチーフにした作品を描き、オーストリア人画家も同様の絵画を制作しているが、このエピソードはおそらく史実ではなく、伝説の類である。 さらにヴァザーリは、レオナルドが最後の数日間を司祭と過ごして告解を行い、臨終の秘蹟を受けたとしている。 レオナルドの遺言に従って、60名の貧者がレオナルドの葬列に参加した。 フランチェスコ・メルツィがレオナルドの主たる相続人兼遺言執行者で、メルツィはレオナルドの金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続した。 また、長年の弟子で友人でもあったサライと使用人バッティスタ・ディ・ビルッシスに所有していたワイン畑を半分ずつ遺しているほか、自身の兄弟たちには土地を、給仕係の女性には毛皮の縁飾りがついた最高級の黒いマントを遺した。 レオナルドの遺体は、アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬された。 レオナルドの死後20年ほど後に、フランソワ1世が「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか。 絵画、彫刻、建築のみならず、レオナルドはこの上なく傑出した哲学者でもあった」と語ったことが、彫金師、彫刻家の記録に記されている。 交友関係と影響 [ ] フィレンツェでレオナルドを取り巻いていた芸術的、社会的背景 [ ] が制作したの『天国への門』。 当時のフィレンツェが誇る芸術作品で、その制作には多くの芸術家が参画した。 レオナルドが若年だった当時のフィレンツェは、における思想、文化の中心地だった。 レオナルドがヴェロッキオに弟子入りした1466年は、ヴェロッキオの師で偉大な彫刻家だったドナテッロが死去した年でもある。 遠近法を絵画作品に最初に取り入れて、の発展に多大な貢献をなした画家は、すでに老境に入っていた。 画家、、彫刻家、建築家・著述家も60歳代だった。 これら初期ルネサンスを代表する芸術家たちの次世代で成功を収めたのが、レオナルドの師ヴェロッキオ、、ミーノ・ダ・フィエゾーレ()らである。 フィエゾーレは人物彫刻を得意とした彫刻家で、の父親や伯父ジョヴァンニ()の胸像は、本人に非常によく似ていると言われている。 また当時のフィレンツェは、写実的で感情豊かな人物像をで描いた画家、人物と建築物が複雑な構成で表現されたの金箔に彩られた東扉『天国への門』を制作した彫刻家など、ドナテッロと同時代の芸術家たちの作品で飾り立てられていた。 ピエロ・デッラ・フランチェスカは空気遠近法の研究を推し進め 、科学的に正確な光の描写を絵画にもたらした最初の画家となった。 これらの研究との『絵画論』といった芸術論文が 、当時の若年の芸術家たちに大きな影響を与え、レオナルドも先人たちからの影響のなかで独自の観察眼や芸術観を培っていった。 マサッチオの『楽園追放』(1425年ごろ、ブランカッチ礼拝堂壁画、)は、裸身で取り乱すを力強い造形で描いた作品である。 光と陰の対比を用いて三次元的に人物を描写した『楽園追放』はレオナルドに大きな影響を与え、自身の作品でこの三次元的描写を発展させていくことになる。 また、ドナテッロの彫刻『』における人文主義的作風が、後のレオナルドの作品群、とくに『洗礼者ヨハネ』(1513年 - 1516年、ルーヴル美術館所蔵、)に影響を与えている。 『カーネーションの聖母』、1478年 - 1480年、()。 レオナルドが描いた初期の聖母子像。 フィレンツェで伝統的に好まれていた絵画分野に、を描いた小規模ながある。 当時、これらの祭壇画はリッピ、ヴェロッキオ、一族らの工房で制作された作品が多かった。 レオナルドが聖母子を描いた初期の作品に『カーネーションの聖母』(1478年 - 1480年、、)と『』(1478年頃、)がある。 これらレオナルドが描いた聖母子は、基本的にはフィレンツェの伝統的な聖母子の作風に則っている。 しかしながら『ブノアの聖母子』に顕著な聖母子をピラミッド型に配する構成は、伝統的な作風からは逸脱した表現となっている。 後に同様の構成で描かれたレオナルドの作品に『』(1508年ごろ、ルーヴル美術館)がある。 レオナルドは(1445年ごろ - 1510年)、(1449年 - 1494年)、(1450年ごろ - 1523年)と同時代人で、わずかに年少である。 レオナルドはこの3人と相弟子としてヴェロッキオの工房で出会い、が主宰するプラトン・アカデミーに出入りした。 ボッティチェッリはとくにメディチ家に気に入られており、画家としての成功は約束されていたも同然だった。 ギルランダイオとペルジーノはどちらも多作な画家で、後に大規模な工房を経営するにいたった。 両者共に制作依頼主を満足させるだけの技量を持った芸術家で、ギルランダイオは大規模なフレスコ宗教画に裕福なフィレンツェ市民の肖像を描き入れた作品を、ペルジーノは甘美で無垢な多数の聖者や天使を描いた作品を、それぞれ得意としていた。 が描いた『ポルティナーリの三連祭壇画』中央パネル(1475年頃、)。 フィレンツェの施薬院付属サンテディジオ教会の祭壇画用として制作された。 ボッティチェッリとギルランダイオは、ローマ教皇から、ヴァチカンの壁画制作の依頼を受けた。 1479年にペルジーノがローマ教皇庁から、礼拝堂壁画制作の責任者に任じられて間もなくのことである。 しかしながらこの栄誉ある壁画制作には、レオナルドは関与していない。 レオナルドが依頼を受けた最初の重要な絵画制作は、1481年にサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧からの『東方三博士の礼拝』()だが、未完のままに終わっている。 レオナルドがヴェロッキオの工房で働いていた時期の1476年にの画家の油彩画『ポルティナーリの三連祭壇画』(1475年ごろ、、)がフィレンツェに持ち込まれた。 北方ヨーロッパの初期フランドル派が完成させた新たな絵画技法であるは、レオナルド、ギルランダイオ、ペルジーノら、フィレンツェで活動していた芸術家たちに多大な影響を与えた。 その後、出身の画家が油彩技法を身につけ、1479年にヴェネツィアを訪れた。 当時のヴェネツィアで第一人者であった画家がメッシーナから油彩技法を伝授され、たちまちのうちにヴェネツィアでも油彩による絵画制作が主流となった。 そして、後にレオナルドもヴェネツィアを訪れることになる。 当時の代表的な建築家とと同じように、レオナルドも集中形式の教会のデザインを試みた。 多くの設計図や外観図がその手稿に残されているが、実現した計画はひとつもなかった。 ギルランダイオが描いたフレスコ画。 左から、アントニオ・プッチ()、、フランチェスコ・サセッティ()、。 レオナルドがフィレンツェに在住していたときのフィレンツェの支配者はだった。 ロレンツォはレオナルドよりも3歳年長で、弟のは1478年に起きた、いわゆるで暗殺された。 後にレオナルドがメディチ家の使者として派遣されるミラノ公国を1479年から1499年まで統治したミラノ公は、レオナルドと同年の生まれである。 レオン・バッティスタ・アルベルティの紹介を受けてメディチ一族の邸宅を訪れたレオナルドは、哲学者での提唱者、古典文学の注釈書の著者、ギリシア語教授での著作の翻訳者ジョヴァンニ・アルギロプーロ()ら、当時第一流のルネサンス人文主義者たちの知遇を得た。 また、メディチ家が主催するプラトン・アカデミーには、才能に溢れた若き哲学者の姿もあった。 後にレオナルドは手稿の余白に「メディチが私を創り、そしてメディチが私を台無しにした」と書き入れている。 レオナルドが、ロレンツォの推挙によってミラノ公の宮廷に迎え入れられたのは間違いなく、なぜレオナルドがこのような謎めいた書込みを残したのかは分かっていない。 「三大巨匠」と並び称されるレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロだが、この三名は同年代人ではない。 ミケランジェロが生まれたときにレオナルドは23歳で、ラファエロが生まれたときにはレオナルドは31歳だった。 レオナルドは1519年に67歳で、ラファエロは1520年に37歳でそれぞれ死去しているが、長命を保ったミケランジェロが死去したのは1564年で88歳のことである。 私生活 [ ] 詳細は「」を参照 レオナルドはその生涯を通じて、異常なまでの創意工夫の才を示し続けた。 ヴァザーリはレオナルドを「ずば抜けた肉体美」「計り知れない優雅さ」「強靭な精神力と大いなる寛容さ」「威厳ある精神と驚くべき膨大な知性」と評し 、レオナルドがあらゆる面で人を惹きつける人物だったと記している。 さらにヴァザーリは、レオナルドが菜食主義者であり、籠に入って売られている鳥を購入してはその鳥を放してやるような、命あるものをこよなく愛する人物だったとしている。 レオナルドには様々な分野の、歴史的に見ても重要な多くの友人がいた。 例えば、近代会計学の父ともいわれる数学者は、1490年代にレオナルドと共著で数学の論文を著している。 フェラーラ公の娘で、マントヴァ侯妃とミラノ公妃の姉妹を除くと、レオナルドと親しかった女性は伝わっていない。 レオナルドはマントヴァ滞在中にイザベラの肖像習作を描いており、この習作をもとに肖像画を描いたと考えられているが、現存していないと思われていた。 しかし2013年10月、スイス銀行の貴重品保管庫から彩色された肖像画が発見され、当局に押収された。 レオナルド研究家であるペドレッティ教授の鑑定では、レオナルドの真筆であることはほぼ間違いないとみられている。 交友関係以外のレオナルドの私生活は謎に包まれている。 とくにレオナルドの性的嗜好は、さまざまな当てこすり、研究、憶測の的になっている。 最初にレオナルドの性的嗜好が話題になったのは16世紀半ばのことだった。 その後19世紀、20世紀にもこの話題が取り上げられており、中でもが唱えた説が有名である。 レオナルドともっとも親密な関係を築いたのは、おそらく弟子のサライとメルツィである。 メルツィはレオナルドの死を知らせる書簡をレオナルドの兄弟に送った人物で、その書簡にはレオナルドがいかに自分たちを情熱的に愛したかということが書かれていた。 16世紀になって、このようなレオナルドの人間関係は性的なものだったのではないかという説が生まれた。 1476年のフィレンツェの裁判記録に、当時24歳だったレオナルド他3名の青年が、有名だった男娼と揉め事を起こしたとして、同性愛の容疑をかけられたという記録がある。 この件は証拠不十分で放免されているが、容疑者の一人リオナルデ・デ・トルナブオーニがロレンツォ・デ・メディチの縁者であり 、メディチ家が圧力をかけて無罪とさせたのではないかという説もある。 この記録はレオナルドに同性愛者の傾向があったことを示唆しており、『洗礼者ヨハネ』や『バッカス』といった絵画作品、その他多くのドローイングに両性具有的な性愛表現が見られるとする研究者もいる。 助手と弟子 [ ] 『洗礼者ヨハネ』、1514年頃、()。 ヨハネのモデルは弟子のサライだといわれている。 「小悪魔」を意味する「サライ」という通称で知られるがレオナルドの邸宅に住み込んだのは1490年である。 その後1年足らずで、サライはレオナルドの金銭や貴重品を少なくとも5度にわたって盗んだ。 サライはこれらの盗品を高価な衣装の購入に充て、レオナルドはサライの不品行を「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」と論っている。 しかしながらレオナルドはサライをこの上なく甘やかし、その後30年にわたって自身の邸宅に住まわせている。 サライはアンドレア・サライという名前で多くの絵画を描いた。 しかしながら、レオナルドがサライに「絵画について非常に多くのことを教えた 」が、レオナルドのほかの弟子たち、例えばマルコ・ドッジョーノ()、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ()らの作品に比べると、芸術的価値に劣るといわれている。 1515年にサライは『』として知られる、『』の裸体ヴァージョンの絵画を描いている。 後にレオナルドが死去すると、サライは『モナ・リザ』を譲られた。 サライはこの『モナ・リザ』は505リラの価値があると考えていたが、この評価額は当時の小さな肖像画としては異例なまでに高額だった。 レオナルドは1506年にの貴族の子息フランチェスコ・メルツィを弟子にした。 メルツィはレオナルドお気に入りの弟子で、レオナルドがフランスへ移住したときにも同行し、レオナルドが死去するまで起居を共にしている。 メルツィはレオナルドの遺産として、芸術、科学の諸作品、写本、コレクションを贈られ、遺言執行人にも任命されていた。 絵画作品 [ ] 「」も参照 近年の研究ではレオナルドの科学者や発明家としての才能が高く評価されているが、400年以上にわたってレオナルドがもっとも賞賛されてきたのは画家としての才能である。 現存するレオナルドの真作、あるいはレオナルド作であろうと考えられている絵画作品は僅かではあるが、1490年時点で「神の手を持つ」画家だと言われており 、いずれの作品も傑作だと見なされている。 レオナルドの作品は、様々な出来の多くの模写が存在することでも有名で、長年にわたって美術品鑑定家や批評家を悩ませ続けてきた。 レオナルドの真作に見られる優れた点は顔料の塗布手法だけでなく、解剖学、光学、植物学、地質学、人相学などの詳細な知識に立脚した、革新的な絵画技法である。 人物の表情やポーズで感情を描写する技法、人物の配置構成における創造性、色調の繊細な移り変わりなど、レオナルドの絵画作品には際立った点が多くみられる。 これらレオナルドの革新的絵画技法の集大成といえるのが『モナ・リザ』、『最後の晩餐』、『岩窟の聖母』である。 初期の絵画作品 [ ] 『』、1475年 - 1485年、(フィレンツェ)。 レオナルドの完成している絵画としては、最初期の作品と見なされている。 レオナルドの画家としてのキャリアは、師ヴェロッキオとの合作『キリストの洗礼』に始まる。 ほかにレオナルドの徒弟時代の作品として、2点の『受胎告知』がある。 そのうち1点は縦14、横59cmの小さな絵画で、もともとはの大きな祭壇画の飾絵だったものが散逸した作品である。 もう1点の『受胎告知』は縦98cm、横217cmという大規模な作品となっている。 どちらの『受胎告知』も、の『受胎告知』などとよく似た伝統的な構図で描かれている。 座した、あるいは跪いた聖母マリアを画面右に配し、背中の羽を高く掲げ、豪奢な衣装を身につけた横向きの天使が、純潔を意味するユリとともに画面左に配されている。 大きな『』(1472年 - 1475年、ウフィツィ美術館)は、かつてはギルランダイオの作品と考えられていたが、現在ではレオナルドの真作にほぼ間違いないと考えられている。 小さな『受胎告知』では、マリアは天使から眼を背け、両手を握りしめている。 このポーズは神の意思への服従を象徴する。 しかしながら大きな『受胎告知』のマリアは、このような服従を示すポーズをとっていない。 予期せぬ天使の訪れで読書を中断させられたマリアの右手は、今まで読んでいた聖書に置かれ、左手は歓迎あるいは驚きを意味する、立てた状態で描かれている。 冷静ともいえるこの若きマリアのポーズは、たる役割に服従するのではなく、自信に満ちて受け入れることを意味している。 若きレオナルドはこの『受胎告知』でマリアを神格化せずに、人間の女性として描いた。 これは神の顕現において人間が果たす役割を認識していることを表している。 1480年代の絵画作品 [ ] 『』、1483年 - 1486年、(パリ)。 『荒野の聖ヒエロニムス』は描き始めの時点で放棄された作品だが、極めて異例な構成をもって描かれている。 は苦行者として画面中央一杯に描かれ、傾けられた顔はやや上を向いている。 左膝は地面に付けられており、右手は画面端まで伸ばされ、視線は右手とは反対の方向に向けられている。 ワッサーマンは、この作品にレオナルドが持つ解剖学の知識が反映されていると指摘した。 前面にはヒエロニムスの象徴である大きなライオンが寝そべり、その胴体と尾が別方向のカーブを描いている。 背景に粗く描かれた岩地の風景が、ヒエロニムスの身体を浮かび上がらせている。 『荒野の聖ヒエロニムス』と同様に、大胆な構成、風景描写、さらには人間模様が描かれているのが『東方三博士の礼拝』(1481年、)で、サン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から依頼された作品だった。 250cm四方で、非常に複雑な構成が採用されている。 レオナルドは『東方三博士の礼拝』を制作するにあたって、線遠近法で描かれた背景の古代ローマ建築物など、数多くのドローイングと習作を描いた。 しかしながら、1482年にから、ミラノ公への使者としてミラノ公国へ向かうように命じられたため、『東方三博士の礼拝』の制作も未完のまま放棄されてしまった。 この時期に描かれたもうひとつの重要な絵画が『』で、ミラノの聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼による作品である。 『岩窟の聖母』は、ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディス()と弟エヴァンジェリスタが協力した作品で、既に完成していた祭壇を飾る大きな祭壇画として描かれた。 レオナルドはこの作品を、聖アンナ、聖母マリア、幼児キリストの聖家族が、天使に守られてのエジプトへの逃避中に幼い洗礼者ヨハネと出会うという、聖書の正典ではありえない場面に設定した。 さらに幼いヨハネはキリストを救世主と認め、祈りを捧げている情景が表現されている。 崩れ落ちそうな岩と渦巻く川を背景にして、青白い顔をした美しい人々が、幼児キリストを愛情をこめて崇拝している場面が描かれている。 『東方三博士の礼拝』にはおよそ15名の人物像と詳細な建築物が描かれているが、『岩窟の聖母』に描かれているのは4名の人物像と岩の洞窟だけである。 『岩窟の聖母』は異なるヴァージョンで2点制作され、1点は聖母無原罪の御宿り信心会の礼拝堂に(現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しているヴァージョン)、もう1点はレオナルドの手元に留め置かれ、後にレオナルドと共にフランスへと持ち込まれている(現在パリのルーヴル美術館が所蔵するヴァージョン)。 しかしながら聖母無原罪の御宿り信心会が正式に『岩窟の聖母』を入手、ないし制作代金を支払ったのは16世紀になってからのことだった。 1490年代の絵画作品 [ ] レオナルドが1490年代に描いた絵画作品のなかでもっとも有名な作品は、ミラノのの食堂にある壁画『』である。 この作品にはキリストが捕縛、処刑される直前に、12名の弟子たちとともにとった夕餐の情景が描かれており、キリストが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている 」と口にした瞬間が描写されている。 レオナルドは、このキリストの言葉によって12名の弟子たちが狼狽したという『』の一場面をこの壁画に描き出したのである。 レオナルドの同時代人のイタリア人著述家(、1480年頃 - 1562年)は、レオナルドがこの『最後の晩餐』の製作中には、数日間夜明けから夕暮れまで食事も採らずに絵画制作に没頭し、その後3、4日はまったく絵筆を取らなかったとしている。 この制作手法は修道院長には理解し難いものであり、レオナルドがミラノ公に苦情を申し立てるまで、上級幹部たちはレオナルドに迅速な作業を要求した。 ヴァザーリは、レオナルドが『最後の晩餐』に描くキリストと裏切り者ユダの顔の表現に苦労しており、修道院長をモデルにするかもしれないとルドヴィーコに語ったと記している。 完成した『最後の晩餐』は、構成、人物表現ともに非常に優れた作品だと評価されたが 、急速に状態が劣化していき、完成の百年後には「完全に崩壊した」といわれるようになった。 レオナルドはこの壁画を制作するにあたって信頼の置けるではなく、ジェッソを主材料とした下塗りの上からを用いたため、作品表面にカビが生じ、顔料の剥落を招いてしまったのである。 このような非常に大きな損傷を被っているとはいえ、『最後の晩餐』はもっとも模写や複製などが制作された絵画作品のひとつであり、絵画だけではなく絨毯やカメオなど、さまざまな媒体に複製されている。 レオナルドが16世紀に描いた小規模な肖像画で、が所蔵する『』は、世界でもっとも有名な絵画作品といわれている。 描かれている女性が浮かべているとらえ所のない微笑が高く評価されている作品で、口元と目に表現された微妙な陰影がこの女性の謎めいた雰囲気をもたらしている。 この微妙な陰影技法は「」あるいは「レオナルドの煙」と呼ばれている。 はこの『モナ・リザ』を直接目にしたことはなく、噂でしか知らなかったといわれているが、「その微笑は魅力的で、人間ではなく神が浮かべているようにみえる。 この絵画を目にしたものは、まるでモデルが生きているかのように描かれていることに驚くことだろう」としている。 その他『モナ・リザ』の特徴として、飾り気のない衣装、うねって流れるような背後の風景、抑制された色調、極めて高度な写実技法などが挙げられる。 これらの特徴は顔料に油絵の具を使用することによってもたらされたものだが、絵画技法はテンペラと同様な手法が用いられており、画肌表面で顔料を混ぜ合わせた筆あとはほとんど見られない。 ヴァザーリはレオナルドを「他者を絶望、落胆させるような、自信に満ちた芸術家」として、その絵画技術を絶賛している。 ルネサンス期に制作されたとしては、『モナ・リザ』の保存状態は完璧に近く、修復加筆の痕跡もほとんど見られない。 自然の風景の中に人物像を描くという『』の構成は、ジャック・ワッサーマンが「息をのむような美しさ」としており 、『荒野の聖ヒエロニムス』の傾いた人物像を髣髴とさせる。 『聖アンナと聖母子』が群を抜いている点は、二人の人物が斜めに重ねあわされている構図にある。 母アンナの膝に座る聖母マリアが、自身が将来遭遇する受難の象徴である子羊を手荒に扱うキリストをたしなめようと、身体を傾けて腕を伸ばしている。 『聖アンナと聖母子』も多くの模写が制作された絵画で、ミケランジェロ、ラファエロ、らにも影響を与え 、さらにはその弟子である、らにも影響を与えた。 また、『聖アンナと聖母子』の画面構成はヴェネツィアの画家やらが好んで採用した。 ドローイング [ ] 『』、1499年 - 1500年ごろ、。 レオナルドは多作な画家ではなかったが、多くのデッサンやドローイングを残しており、そのにはレオナルドが興味をもったあらゆる事象の小さなスケッチや詳細なドローイングで埋め尽くされている。 現存するデッサンは900種とも言われている。 絵画作品の習作や下絵も多く現存しており、『東方三博士の礼拝』、『岩窟の聖母』、『最後の晩餐』などの習作であると特定できるものもある。 制作日時が判明している最初期のドローイングは1473年の『アルノ川の風景』で、川、山、モンテルーポ城、農地が極めて詳細に描かれている。 色つきの紙に黒チョークで描かれた『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』には、陰影表現に『モナ・リザ』に見られるスフマート技法が用いられている。 この『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』を直接の習作として描かれた絵画作品は存在しないともいわれているが、ルーヴル美術館が所蔵する『聖アンナと聖母子』は構成がよく似ている。 実在の人物をモデルとしていると思われるものの、大げさに誇張して描かれた「」と呼ばれる多くのドローイングがある。 ヴァザーリは、レオナルドは興味を惹かれる容貌の持ち主を見かけると、一日中その後を着いてまわって観察し続けたと記している。 美しい少年を描いた習作も数多く存在する。 弟子のサライに関連するものも多いが、いわゆる「ギリシア人風の横顔」と称される、希少かつ高く評価されている習作がある。 これら端整な「ギリシア人風の横顔」は、レオナルドの戦士を描いた習作と好対照であるといわれることもある。 また、サライは仮装のような装束で描かれていることも多い。 レオナルドはショーや行列の演出を任されることもあり、これらはそのための習作だった可能性もある。 その他に衣服の習作もあり、なかには極めて詳細に描かれたものも存在している。 レオナルドは初期の作品から優れた衣服の表現技法を見せている。 1479年にレオナルドがフィレンツェで描いた、猟奇的ともいえるスケッチがある。 ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリアーノが暗殺されたに加担したベルナルド・バロンチェッリが、絞首刑に処せられた場面を描いたスケッチである。 このスケッチにはレオナルドが流麗なで書いた、バロンチェッリが処刑されたときに身につけていた衣服のことが記されている。 ギャラリー [ ] 以下は、記事本文中で使用している絵画作品以外の、レオナルドの「真作 Universally accepted 」、あるいは「ほぼ真作 Generally accepted ]とされている絵画作品である。 「」も参照 では、科学と芸術をかけ離れた両極端なものとは見なしてはいなかった。 レオナルドが残した科学や工学に関する研究も、その芸術作品と同じく印象深い革新的なものだった。 これらの研究は13,000ページに及ぶ手稿にドローイングと共に記されており、現代科学の先駆ともいえる、芸術とが融合したものである。 手稿には日々の暮らしや旅行先でレオナルドが興味を惹かれた事柄が記録されており、レオナルドは自身を取り巻く世界への観察眼を終生持ち続けた。 レオナルドの手跡はほとんどが草書体の鏡文字で記されている。 この理由としてレオナルドの秘密主義によるものだとする説もあるが、単にレオナルドが書きやすかっただけだとする説もある。 レオナルドはであり、右から左へと文字を書くほうが楽だったと思われる。 子宮内の胎児が描かれた手稿。 1510年頃、() レオナルドの手稿とそのドローイングには、レオナルドが興味と関心を持ったあらゆる分野の事象が書かれている。 食料品店や自身の召使いの一覧といった日常的なものから、翼や水上歩行用の靴の研究にいたるまで、極めて幅広いジャンルにまたがっている。 そのほか、絵画の構成案、詳細表現や衣服の習作を始め、顔、感情表現、動物、乳児、解剖、植物の習作や研究、岩石の組成、川の渦巻き、兵器、ヘリコプター、建築の研究などが手稿に書かれている。 さまざまな種類、大きさの紙に記されたこれらの手稿はレオナルドの死後に散逸し、現在ではの、、スペイン国立図書館()、などに所蔵されている。 また、アンブロジアーナ図書館には12巻の「アトランティコ手稿」()が、大英博物館には「アランデル手稿」()がそれぞれ所蔵されている。 が所蔵する「」は科学に関する研究が多く記された手稿で、毎年1度、1カ国、1カ所のみで展示されている。 レオナルドの手稿は、最終的には出版することを目的として書かれたものだと考えられている。 これは多くの手稿で様式や順番が整理されているためである。 1枚の手稿にひとつの事柄について記されているものが多い。 例えば人間の心臓や胎児について書かれた手稿には、詳細な説明とドローイングが1枚の紙に記されている。 しかしながら、レオナルドの存命中にこれらの手稿が出版されなかった理由は分かっていない。 科学に関する手稿 [ ] の『神聖比率』の挿絵。 レオナルドが描いたドローイングを版画にしたもの。 レオナルドの科学への取り組み方も観察によるものだった。 ある事象を理解するために詳細な記述と画像化を繰り返し、実験や理論は重視していなかった。 レオナルドはやの正式な教育を受けておらず、独力でラテン語を習得したものの、当時の多くの学者からは科学者であるとは見なされていなかった。 1490年代にレオナルドはのもとで数学を学び、1509年に出版されることになるパチョーリの『神聖比率』()の挿絵に使用する版画の下絵として、正多面体骨格モデルのドローイングを複数描いている。 残された手稿の内容から判断すると、レオナルドはさまざまな主題を扱った科学論文集を出版する予定だったと考えられる。 平易な文章で書かれたを扱った手稿は、枢機卿ルイ・ダラゴンの秘書官がフランスを訪れていた1517年に実施された解剖を、レオナルドが見学した体験から書かれているといわれている。 弟子のフランチェスコ・メルツィが編纂した解剖学、光や風景の表現手法に関するレオナルドの手稿が、1651年にフランスとイタリアで『絵画論』( Trattato della pittura、ウルビーノ手稿()とも呼ばれる)として出版された。 1724年にはドイツでも出版されている。 『絵画論』がフランスで出版後50年間で62版まで版を重ねたこともあって、レオナルドは「フランス芸術学教育者の始祖」と見なされるようになっていった。 科学分野でレオナルドが行った実験は当時の科学理論に適ったものだったが、物理学者のようにレオナルドを徹底的に追求した研究者たちは、後世の、といった科学者たちと比べると、レオナルドは本質的に全く別種の研究者であるとし、レオナルドの科学的理論と仮説は芸術、とくに絵画と一体化したものだったと主張している。 解剖学に関する手稿 [ ] 腕骨格の研究手稿、1510年頃。 レオナルドが人体解剖学の正式な教育を受け始めたのは、ヴェロッキオの徒弟時代のことで、これは師のヴェロッキオが弟子全員に解剖学の知識の習得を勧めたためである。 レオナルドはすぐに画家にとって必要とされる局所解剖学の知識を身につけ、、など、人体の内部構造を描いた多くのドローイングを残している。 その中にはセックスを行っている男女の断面図も含まれる。 著名な芸術家だったレオナルドは、フィレンツェのサンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院()での遺体解剖の立会いを許可されており、さらに後にはミラノとローマの病院でも同様の立会いを許されている。 レオナルドは1510年から1511年にかけてパドヴァ大学解剖学教授マルカントニオ・デッラ・トッレ()とともに共同研究を行った。 レオナルドは200枚以上の紙にドローイングを描き、それらの多くに解剖学に関する覚書を記している。 レオナルドの死後、これらの手稿を受け継いだ弟子のフランチェスコ・メルツィが出版しようとしたが、手稿の言及範囲の広さとレオナルド独特の筆記法のために作業は困難を極めた。 結局メルツィの存命中には出版することができず、メルツィの死後50年以上にわたって作業は放置されてしまった。 結局、1651年に出版された『絵画論』にも含まれることになる、解剖学に関する僅かな手稿のみが、フランスで1632年に出版されただけとなった。 メルツィはレオナルドの手稿を出版するにあたってその編纂を任されていた時期に、多数の解剖学者や芸術家たちがレオナルドの手稿を研究しており、画家のヴァザーリ、、らが、この手稿の挿絵をもとにした多くのドローイングを描いている。 レオナルドは筋肉や腱などと同じく、人体骨格を扱った手稿も多数制作している。 骨格と筋肉の機能に関するこれらの研究は、現代科学でいうの初歩にも適用可能な先駆的研究ともいわれている。 レオナルドは心臓や、、などの手稿も残しており、胎児を描いた最初期の科学的なドローイングを描いている。 芸術家としてのレオナルドは綿密な観察によって、加齢による影響、生理学的観点からみた感情表出を記録し、とくに激しい感情が人間に及ぼす影響について研究した。 また、顔部に奇形や罹病跡をもつ人物のドローイングも多数描いている。 レオナルドは人間だけではなく、解剖に付されたウシ、鳥、サル、クマ、カエルといった動物の解剖画も手稿に描いており、人間との内部構造の違いを比較している。 また、ウマに関する手稿も多く残している。 工学と創案に関する手稿 [ ] の概念図、1488年頃、。 存命時のレオナルドは工学技術者としても評価されていた。 ミラノ公に宛てた書簡で、レオナルドは自らのことを都市防衛、都市攻略に用いるあらゆる兵器を作ることができると書いている。 1499年にフランス軍に敗れたミラノ公国からヴェネツィアへと避難したレオナルドは、当地で工学技術者の職を得て、都市防衛のための移動要塞を考案している。 また、も参画していたアルノ川流路変更計画にも、土木技術者として加わった。 レオナルドの手稿には、数多くの現実的あるいは非現実的な創案があり、楽器ヴィオラ・オルガニスタ()、水圧ポンプ、迫撃砲、蒸気砲などの創案が含まれている。 1502年にレオナルドは、のが構想した土木工事計画のために長さ200メートルにおよぶ橋の設計図を制作している。 この橋は入り江のに架けられる予定だった。 しかしながらバヤズィト2世はこのような大規模な土木工事は不可能だとして、この工事計画を承認しなかった。 このときレオナルドがデザインした橋は、2001年にノルウェーで実施された「レオナルド・ブリッジ・プロジェクト()で実際に建設された。 レオナルドはその生涯を通じて空を飛ぶことを夢見ていた。 1505年ごろの『鳥の飛翔に関する手稿』()などで鳥の飛翔を研究し、やのような飛行器具の概念図を制作している。 イギリスのテレビ局は2003年のドキュメンタリー番組『レオナルドが夢見た機械』( Leonardo's Dream Machines)で、レオナルドの手稿に残る設計どおりにさまざまな器具を製作した。 設計どおりに動作したものもあれば、全く役に立たないものまでさまざまな結果となった。 にレオナルドと彼の友人でもあり、共同研究者でもある ()はので飛行実験を行うも失敗した。 名声と評価 [ ] 『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』、、1818年。 レオナルドはフランス王フランソワ1世に看取られながら死去したという伝承をもとに描かれた作品。 レオナルドの名声は生前から一貫しており、フランス王フランソワ1世がレオナルドをまるで戦利品であるかのようにフランスへと連れて行くほどだった。 フランソワ1世は最晩年のレオナルドを支え、レオナルドはフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったという伝承が残っている。 レオナルドに関する世間からの関心は、その後も衰えることはなかった。 現在でもレオナルドの有名な美術作品を観るために大衆が列をなし、Tシャツにはレオナルドの絵画がプリントされ、作家たちはレオナルドの驚くべき博学さとその私生活についての考察を書き続け、史上最高の知性を持った人物であるとみなされている。 ヴァザーリは『』の1568年に出版された第2版の 、レオナルドの列伝冒頭で次のように紹介している。 多くの人々がそれぞれに優れた才能を持ってこの世に生を受ける。 しかし、ときに一人の人間に対して人知を遥かに超える、余人の遠く及ばない驚くばかりの美しさ、優雅さ、才能を天から与えられることがある。 霊感とでもいうべきその言動は、人間の技能ではなく、まさしく神のみ技といえる。 レオナルド・ダ・ヴィンチがこのような人物であることは万人が認めるところで、素晴らしい肉体的な美しさを兼ね備えるこの芸術家は、言動のすべてが無限の優雅さに満ち、その洗練された才気はあらゆる問題を難なく解決してしまう輝かしいものだった。 — 『』 画家、批評家、歴史家たちからの尽きることのない高い評価は、さまざまな賛辞となって表現されている。 『宮廷人』の著者は1528年に「ほかに世界最高の画家がいたとしても、彼(レオナルド)の懸絶した芸術の前では顔色を失うだろう」とし 、レオナルドの伝記を書いた、通称アノニモ・ガッディアーノと呼ばれる詳細不明の伝記作家は1540年に「彼(レオナルド)の才能は極めて稀なあらゆる分野に通暁したもので、万物が彼に味方しているかのような奇跡といえるものである」と賞賛している。 没地にある、レオナルドの銅像。 19世紀はレオナルドの才能に対する賞賛がとくに高まった時期となった。 これはイギリスで活動したスイス人画家が1801年に書いた「現代美術の夜明けといえる出来事だった。 レオナルド・ダ・ヴィンチが、それまでの優れているとはいえなかった芸術を光輝に満ちたものへと一変させた。 ただ一人の天才がすべてのことを成し遂げたのである」という文章によるものだった。 リオも1861年に「彼(レオナルド)は、その才能の偉大さ、高貴さにおいて、あらゆる芸術家から屹立した存在だった」とレオナルドを評価した。 19世紀にはレオナルドが残した膨大な手稿が、その絵画作品と同様に広く知られるようになった。 は1866年に「これほど多彩な才能を持つ人間はおそらく他に存在しない。 飽きるということを知らず、その探究心は無限であり、生まれながらに洗練された、同時代はもちろん、その後何世紀にもわたって群を抜いている人物である」としている。 美術史家は1896年に「レオナルドは真の天才といえる唯一の芸術家である。 彼(レオナルド)が触れたものは、すべてが永遠の美へと姿を変えた。 頭蓋骨の断面、雑草の構造、筋肉の習作などあらゆるものが、彼が持つ描線と陰影の感性によって永久の生命を吹き込まれたのである」と記している。 レオナルドの類稀な知性への関心は、衰えるところを知らない。 専門家によるレオナルドの文章の研究と解釈、絵画作品への最先端の科学技術を駆使した分析によってその業績が明らかにされ、さらには、記録には残っているものの現存しないとされる作品の探索も試みられている。 リアナ・ボルトロンは1967年の著書で「あらゆることに関心を示す彼(レオナルド)の好奇心が、さまざまな分野に対する知識を追い求めさせた。 レオナルドは間違いなく比類なき万能の天才である。 ……レオナルドが没して5世紀が過ぎたが、未だにレオナルドは我々の畏敬の対象となっている」と記している。 脚注 [ ]• 作品全体、あるいは作品の大部分をレオナルドが描いたと、ほとんどの美術史家に認められている現存するレオナルドの絵画作品は15点である。 その多くが木の板に描かれただが、、大規模なドローイング、そして絵画制作の下準備として描かれた下絵2点も、絵画作品15点の中に含まれている。 絵画以外でレオナルド自身の手によるとされている作品は数多い。 レオナルドの構想に必要とされるや科学技術は、ルネサンス時代にはほとんど存在していなかった。 レオナルドが構想した実用的アイディアの多くが、ヴィンチのレオナルド博物館で展示されている。 , Leonardo da Vinci William Morrow and Company, 1956 )。 この日記に記されている日付はユリウス暦によるものである。 この時期のフィレンツェの日没は午後6時40分で、日没後3時間は午後9時40分ごろということになる。 当時の一日の概念は日没から翌日の日没までだったため、日記に記されている4月15日という日付は、夜中の12時を日付の境界とする考え方では4月14日ということになる。 この日付を現在のに換算すると、レオナルドの誕生日は4月23日である。 レオナルドの母親カテリーナは、中東あるいは「地中海沿岸地方」の出身の農奴階級だといわれることがある。 ヴィンチのレオナルド博物館館長アレッサンドロ・ヴェゾーシは、レオナルドの父親ピエロがカテリーナという名前の、中東出身の農奴を所有していた証拠の存在を指摘している。 レオナルドが中東の血を引いているという説は、レオナルドの指紋をその作品から復元することに成功したマルタ・ファルコーニが支持している。 ただし、このレオナルドが中東人種の血を引いているという説を否定する研究者も存在する。 アーヴァイン校の犯罪社会学准教授サイモン・コールは「わずか1本の指から採取された指紋で、その人物の人種を推測することは不可能だ」としている。 ヴェロッキオが絵画制作を中止したこととレオナルドは無関係で、単にヴェロッキオが彫刻作品に専念するためだったという説もある。 1472年以前からレオナルドがこの聖ルカ組合に所属していたことは、現存する1472年から1520年のかけてのギルドの支払記録からもほぼ確実視されている。 このドローイングは、のが所蔵している。 Drawing No. ルネサンス期のフィレンツェでは、同性愛は法的に禁止されていた。 ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』が鋳造されたのは1488年で、ヴェロッキオが死去した後のことである。 レオナルドがフランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作を開始したのは、『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の完成よりも前ということになる。 2005年になって、部局として100年にわたって使用されていた建物の修復中に、レオナルドが使用していたこの工房が発見された。 『アンギアーリの戦い』も『カッシーナの戦い』も未完に終わり現存していない。 ミケランジェロが描いた『カッシーナの戦い』の全体像は、1542年にアリストトーレ・ダ・サンガッロの模写によって知られている。 レオナルドが描いた『アンギアーリの戦い』は、下絵に描かれたスケッチと作品中央部分ののみを描いた数点の模写でしか知られていない。 模写の中でおそらくもっとも精密に描かれているのはの手によるものである。 『ダヴィデ像』の設置場所を決定する委員会は、レオナルド、ら多くの芸術家も参加した、総勢30名のフィレンツェ市民で構成されていた。 マルコ・ドッジョーノは『最後の晩餐』の模写でも知られている。 この絡繰仕掛けのライオンがいつ制作されたのかは不明だが、フランソワ1世の入城時に、フランソワ1世と教皇レオ10世の和平交渉の仲立ちとして使用されたと考えられている。 ライオンはラテン語でレオであり、ローマ教皇レオ10世の、フランス王の紋章であるユリはフランス王フランソワ1世の象徴である。 このライオンは復元されて、現在ボローニャの博物館で展示されている。 クルーの館は、現在博物館として使用されている。 レオナルドが死去した日に、クルーの館から旅程で二日間かかるから王令が出されている。 このことが、フランソワ1世がレオナルドの最期を看取っていないという証拠となっている。 ただし、ホワイトの『最初の科学者レオナルド』( Leonardo: The First Scientist)では、この布告にフランソワ1世の署名がないことを指摘している。 レオナルドの遺言どおりに、会葬者として参列した60名の貧者全員に、レオナルドの遺産から施しが与えられた。 上質の素材が使用されていたこの黒いマントは既製品だったが、豪華な毛皮の縁飾りは別途追加されたものだった。 この黒のマントが遺贈されたのは、この女性がレオナルドの葬式に着用する喪服に困らないように配慮する意図もあった。 イギリス人美術史家は、伝統的な絵画に描かれた「受胎告知」で、聖母マリアの「賞賛に値する態度」あるいは反応を、動揺、沈思、問いかけ、服従、賞賛の5つに大別している。 しかしながら、レオナルドの『受胎告知』のマリアは、これら伝統的な描写と合致してはいない。 『荒野の聖ヒエロニムス』は18世紀に女流画家が所有していたが、後に裁断されてしまった。 後世になって主要な2枚の断片が屑屋と靴屋で見つかり、修復されて現在に至っている。 ただし、作品の外周部は失われたものとみなされている。 ヴァザーリが『モナ・リザ』を直接目にしたことがあるかどうかについては議論となっている。 未見であるとする説の根拠は、ヴァザーリが『モナ・リザ』の眉毛に言及していることが主となっている。 ダニエル・アラッセは著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ』で、レオナルドは『モナ・リザ』に眉毛を描いていたが、後世に除去された可能性について述べている。 16世紀半ばでは眉毛を抜くことが一般的だったという説もある。 『モナ・リザ』を高解像度カメラで解析したパスカル・コットは、オリジナルの『モナ・リザ』には眉毛とまつげが存在していたが、徐々に消えていってしまったと主張している。 ジャック・ワッサーマンは「比類ない画肌処理」と呼んでいる。 「ギリシア人風の横顔」には額から高い鼻先までまっすぐにつながった横顔を持つ少年が描かれている。 これは古代ギリシア彫刻に多くみられる特徴となっている。 左利きで先割れの羽ペンを使用する場合、左から右へと文字を綴ることは非常に難しい。 諸説あるが、この時の街の壁に飛行実験成功を記念する金属製の記念額があったことを証拠にレオナルドらの飛行実験は成功したのではないかと唱える者もいる。 これが事実ならば、レオナルドとマシニは人類の歴史に於いて、初の有人飛行を成し遂げた人物となる。 出典 [ ]• Art through the Ages. 450 - 456• Rosci, Marco 1977. 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Taschen. 関連文献 [ ]• 『よみがえる最後の晩餐』片桐頼継、アメリア アレナス共著、日本放送出版協会、2000年• 『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』片桐頼継、角川選書、2003年 万能の天才という手放しのレオナルド礼賛に疑問を呈し、特に「発明」なるものの多くが実用にはほど遠く、また他人のアイディアも含まれると指摘している。 しかし、レオナルドの功績は絵画の革新など別の面にもある。 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実 創られた物語と西洋思想の系譜』 竹下節子 中央公論新社 2006年5月• 『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 飛翔する精神の軌跡』 チャールズ・ニコル 越川倫明ほか訳、白水社 2009年• 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と科学』 カルロ・ペドレッティ、アンドレ・シャステル、パオロ・ガッルッツィ、ルカ・アントッチャ、マルコ・チャンキ共著、・ラーン大原三恵・小林明子訳、イースト・プレス、2006年。 『著作集5. レオナルド研究』 みすず書房 1992。 『 レオナルド研究寄與』編、座右宝刊行会 1973。 『レオナルド素描集成』 レオナルド・ダ・ヴィンチおよびその周辺画家の素描、L. アラーノ解説 日本版は澤柳大五郎監修、三神弘彦訳、みすず書房. 1984。 『レオナルド・ダ・ヴィンチ解剖図集』 松井喜三編解説 みすず書房 1971、新版2001 関連項目 [ ]• - 宮廷料理人、"料理界のダヴィンチ"と呼ばれる。 - 設立当初のロゴに、ダ・ヴィンチのヘリコプターが図案として使われていた。 - 戦前日本におけるレオナルド・ダ・ヴィンチ研究の泰斗。 - による児童文学。 - レオナルドにまつわる謎を描いた小説。 - 一部作品に登場する。 外部リンク [ ] で 「 レオナルド・ダ・ヴィンチ」に関する情報が検索できます。 ウィクショナリーの ウィキブックスの ウィキクォートの ウィキソースの コモンズで() ウィキニュースの ウィキバーシティの 英語版ウィキソースに 著の原文があります。 "" in the 1913 Catholic Encyclopedia• Article from• jpg and. tiff format. The Queen's Gallery, Buckingham Palace, Friday, 4 May 2012 to Sunday, 7 October 2012. High-resolution anatomical drawings. 大英図書館所蔵 ダ・ヴィンチ手記• - (2018年4月13日アーカイブ分)• - (2016年5月6日アーカイブ分).

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